万が一のために3

 

「(物語の)思想を死で顕してはいけない。(生の思想を死の現実で殺してはいけない)」。

 

こう考えること、こう考えていたことがあるからこそ、常に物語の持つ思想性は、媒体が何であれ、娯楽というものになぅても、

そのひたむきさや倫理的な健全さを(表現手法はどうであれ)保持してきたといえます。

 

さて、今回ここで残すことですが、この前文から思ったことを、たわいもないことながら、

短文で三つ、つらつらと書いてゆきます。

 

以前、といっても6年~7年位前だったと思います。

漫画やアニメで、死んだはずの主人公が生き返ったり、長じて死ぬことを知らないような子供の発言が問題視されたことがありました。正確には、そういったアンケートの結果のようなものです・・・。

 

そこにある問題提起は、日々親以上に子供(の精神面)に触れる娯楽媒体を通した創作表現に対してのもので、

そこにある人(親)の不安や疑念が、より倫理的な表現を物語の持つ思想と、この思想の「表現手法」に対して、(受けて側が)造り手側に警鐘を鳴らす・・・といった額面どおりの捉え方をされているはずの内容でした。

 

 

ですから、これは思想の一表現形式である「物語」を語る上では、当たり前のことで、本来はあまりいみがなく、

この議論が<技術的にまだ出来ない「完全な心のある「ロボット」」を表現することが、許されるのか許されないのかと同じ意味>と同程度なものでしたが・・・
むしろこの時に、物語は(娯楽という媒体に乗せるものであれば特にですが)思想であり、そこに内在化する象徴としての

オマージュは、形式化されて繰り返されるということを、作り手側からすら出してこない報道のされ方に、不思議さを感じ、

当方は、今の(若い世代の)親御さんや、マスコミの方々、教育者の方々が、娯楽は流通で、物語は「思想」の販売一形態であることを教わっていないのか・・・逆に不安になり、


自分たちが何を批判しているのか?

自分たちが何を知らずに断じているのか?

自分たちが何をせずにそれを進めるのか?

 

これを壊そうとする思想こそは、ここに潜むものの「在り様」が、とても根源的で、壊せば直すことの許されない・・・そんな繰り返しが許されない・・・破滅的なものだからこそ・・・決して顕にしないのだろうと思えるような・・・まるで戦中への統制を感じさせるような風味を見て取ったことがありました。

 

というのも、(日本の)現実で起こっている「死」というものと、娯楽を含めた「思想」表現、もしくは「思想」発露の手段が顕す「生」への不屈というものが、まさしく現実の「親」や「教育者」というものを飛び越えて、
「死」を語らぬこと、死を受け入れないことが問題であるかのよう語られていたことに、語っているとされたのが「親」や「教育者」であったことに、これが自らの思想や役割を捨てて、ただ論じ、ただ断じることに、自らの意義を自らで否定するかのような姿勢を感じたからです。


現実の「死」は現実に生きるものの勤め。

 

人を生かす思想が語るべき死とは、別のもの。生の対極、生を活かすこと。

 

これと、自分の役割を論ぜず(他者に寄りかかる形で)否定する。
これを滑稽で、不思議と思わず、なにを不思議と思うのか・・・。

人がその先(未来や将来と言い換えてもいい)を見据えて伝播させる「生の思想」が例えば、物語であり、歌舞音曲であり、詩歌であり、絵であり、親と子の在り様の先であったり・・・
そこに帰結されるなら、現実のあらゆる「死」を起点に「思想」これを語ることは、
どんな残酷な死や、そこに至る「死」の過程をも是としてしまう「思想への死」であるからです。

思想は死なないし、そこから生まれた表現は死に至るものでもなく、故に、不屈である。
これは、人が生まれた瞬間に死を求めない限り、常にそうでしょう。

 

 

中二病という言葉があって、これは最初、義侠心や正義感というものの思想とその表現が、

とっぴな筋立て、筋立てもない理不尽な展開、製作者の都合に沿って歪曲して語られた時に生じる不都合さ、

そこに生じるズレを、独善的に猪突に表現してしまうことを一種揶揄して皮肉交じりに評する蔑称だと思っていました(笑)。

 

すこし調べましたが・・・その部分は今は論ぜません。しかし・・・

 

どうも、最近・・・善意や強く躍動的な熱意、表現的芸術や義侠区で顕すと同じ意味での、しばし一方的で、しかし様々な意味を含む見せ方をすること、思想そのものへの、無差別な否定を象徴するようなそんな使われ方をされていないか?と感じて、

ここに、前述の 思想の死を起こさせない為に人が持つ人の(正義への)在り様の不屈さというものを、

その心の萌芽を一方的に嘲笑し一方的に断じるようになっては・・・・

 

そこにあるのは、子供が親を殺し親が子供を殺し、他者を貶めることを自らのみの在り様として、一面の不足をのみあげつらい、理解せず、そして、自らは決して批判されず、決して貶められない・・・
そういった救いようのないほどつまらない、誰でもができて、誰しもが眺める・・・

そういう他者に自らを落としこめる、自らを保たせるに自らのみで完結出来ない・・・
そういった在り様のそれ・・・・だと見て取り、非常につまらないことだと思えたものです。

 

 

この60年ほど・・・大正時代まで含めると、80年ほど・・・

日本人の持つ物語世界を顕す一つの体系に<多くの(時代や国々の持つ)世界や設定を理解して取り込む・・・

この思想の体現に見て取るに、その思想(や歴史)の仲立ちの機能を持つ性質は、恐らく稀有のものでしょう。

 

全ての理解は出来なくとも、全ての(国々や組織の)中から人に必要な何かを取捨選択し、

これをつないで、互いと互いを橋渡しできることは、恐らくとてもまれなもの。

しかも、これは、死を知らないからではなく、もう十二分に(二度の大戦と、明治の開国時に)死んで殺されているからこそ、

これを語れるものです。


武力と死ではなく、救うということに意義を求めるならば、それもまた世界への在り様の一つ。

殺すこと貶めることは世界の誰でもどこでもが行うことで、まったく面白いも普遍性もない、
ただ眺めるに同じことでしょう。

 

戦争に参加しない、人を殺しにいったことがない、子供を含む民兵を一人も殺さず、老人を含む衛兵の一人も見殺しにせず、

それを非として、国にあらず人にあらずということならば、殺さず、殺せず、闘い、闘い続けるそれこそが、

一つのかぶく在り様であり、我等を形作る、生者の得た延長であるとそう思うのです。

 

誰も同じではなく、我々もそうであり、我々を形つくろうとそうあるなら、

我々の死も生も、まさしく我々の歌舞のままに進めよう・・・。

 

国は人が造るもの、国は人が統べるもの。
組織の概念が、それが数千年の長さであっても、人間の在り様のそれを変えるのは及ばず、犯すべからず。

 

子が親にもとめることも、国の成り立ち程度の時間では変わらず、

優しくされることに柔らかさを感じること、大きさ、小ささを感じて、手に取り、眺め、そういうったものを感じることは

本質的に変わらず、痛みを痛みとして感じ、死を感じ、生に赴く。

ならば一人一人の生こそが、長く育まれ、伝え伝え合う仕組み。

これを確立したものとして、明示し伝えることこそを、国も企業も門閥も宗教も超えて伝うことこそ、

「人」の在り様(に不可欠なもの)だと思うのです。