自衛隊の国防軍化について

まず、海外から自衛隊がどう認識されているかは後に議論するとして、

軍というものは軍を相手にする存在であり、

人を殺すことであるという単純な現実が、

人殺しを罪として成立している社会にて認知される最大の矛盾した存在だと

多くの方々は理解していると思います。

憲法九条の最大の意義は「人を人殺しにさせない」延長にある

「国家によるあらゆる合法化した集団殺戮を否定する」もしくは

「殺戮」を「軍」が行った「戦争」として合法化しないという部分で精巧に出来ており、

これを明文化できたことは、「軍」を持ち、

「人殺し」の集団化である「戦争」を合法化させてしまった

国々にとっては、容易に成立させられない稀有な国家システムでしょう。

 

「軍」を持った合法化された「人殺し」は、第三者にすれば鎮圧であっても「殺戮」として

捉えられ、これを口火として同じように「人殺し」をする「軍」をもって対応されることは当然の理でしょう。

 

軍を持つことが多くの国家社会と同じくなるというのも語弊があり、

憲法上の先進性で言えば、この日本の状況こそがもっとも先進であり、

先進的な社会理念の構造を持てたこれを武器にせず、放棄すると等しい改変は

地政学的な問題としても、外交上や国際法的な抑止力を喪うため適当ではないでしょう。

 

産業的な観点で言えば、国軍化し、軍備としてのもろもろの諸産業がより強く展開されれば

この利潤は一時的に国家を潤しますが、それを続けるためには、より強く、より多くの紛争を

求める結果となり、産業的にも必ず他国との共同となります。

これを続けるのは地政学的に無理でしょう。

ただし、原料・加工産業的な部分では、商社に勤められたりする方や、官僚ともなれば、

そのプランが数十年単位であり、すでに決まっているプランの利潤を変えずに

非戦争、非軍備に変える必要はあるでしょう。

 

基本的な外交プランとしては、平和九条を武器にし、

防備力の増強と、独自システムの構築、この供与を経済プランのひとつに、

人殺しではなく殺さずの理が、文化的利潤と向上を全人的に行えるとした方が

最終的には、より破綻のない「個人」と「個人」を存続させ、この成長を維持する

国家維持のシステムとなるでしょう。

 

現実的にいえば、相手と戦うとき、そこに相手と同じ・・・相手の優位な土俵、同列では負けますが、

理念すらも相手と同列でなく、しかもそこに人殺しを国家単位であっても容認しないという形で公言すれば、

これを誇りとし、わが国独自の立ち回り方をもって戦い続るという形でなければ、

存続も難しいということなのです。

これは、どのような・・・外交、産業、国家運営等にあっても変わりません。

全てを利用しなくてはいけないほど大きい相手なのに、わざわざ外交カードのもっとも良いものを捨てることは

ないとも思うのです。