前述のツイッター掲載版

こちらに登録してあるのではない

もう1つのほうで書いてみました。

 

 

『色々在り、少しだけ「改憲」が軍化につながったらの不利益と、

憲法九条の真の意義を改めて書いておこうと思います。

 

私は、人間の在り様に対する宗教や企業の優位性より、人間「個人」の人格権と(男女の同権と、

その生理的異なりの相互理解と、)共通倫理の発達こそ、 各宗教と企業しいては国家・・・

そして人類の 進歩と構築に必要不可欠と考えています。これは「世界」への架け橋となるでしょう。

 故に、特定の宗教・企業・血族に関わらない無辜の一見としてお聞きください。

 

さて・・・ 解釈の違いはあるでしょうが 基本的に現政府および各機関は、

(自らも法に守られる人権を有しながら)、 日本文化圏に属する国民、

また倫理的判断をもってそこに在る様々な人々の、基本的人権を人種問わず守ることを旨としていると考えます。

 

私は「政府」というものには様々な機能があり いくつかの私見を有していますが、

変わらないのは、末端に至る一人の人員まで その全てに、等しく人権があり、

職業や職能でこれが左右されることはないということです。

総体としてそうでなければ「人間」の「人権」を守り維持する「人間」による

国家基幹が偽りとなるからです。その上で、現在の、

もしくは今後未来に至るまで、

(人の成長する本質が終わらない限りは)この基本的人権の尊重と確立は「全人的個人」

とって必要不可欠と常に考えます。常に多くの(国連加盟の)国々が、

個人の人権および倫理を守り、また構築してゆく過程で、その大なり小なりの規模の違いは在るものの

 「戦争」における殺人と殺人者とならざるえない国民の発生と・・・

それがどのような過程から生じたものであったとしても・・・

憲法下における殺人の罪と殺人者を生み出す国家システムの矛盾を抱え、

常にこの問題の解消に腐心してきました。

 

この「戦争」下での「殺人」および殺人者を生み出さない「個人」の「人権」を、

最大限守る「憲法九条」および付帯する日本国憲法を基幹とした運営システムは、

まだ完全とはいえないまでも・・・第二次大戦時に生じた、

本来は死んではいけなかった多くの(今の現代に生きる)「個人」と同じ人間の喪失から生じた・・・

「戦争」と「殺人の罪」の矛盾を抱えるどの国家よりも、並ぶべきもののない先進性の塊であり、

その「先に至れり」の部分だと思います。「日本」およびその文化圏のあらゆる方々は、

万人に至るまでその隔てなく「人権ある個人」であり、友であり、

 これはどの様な職についている方でも、例えば公務員であっても当然しかるべき

人権保持者であります。

 

このれらの人々こそが、戦争への参加を拒否し、その殺人を行わず、

「戦争の殺人」と「法下の殺人」の・・・他者を殺害する罪における矛盾を乗り越えて、

多くの国々の「渇望するのに」まだ至れない、この至る先についた人間たちです。

これがあらゆる形で押し寄せる「戦争」と、そこに介在する「殺人」の罪を回避し続けた、

「個人の人権」を維持した一つの形であります。

 

将来これらの「憲法機構」や「倫理体系」を他国に輸出する、

もしくは「日本国」として交付したならば、武力も宗教も人種も関係ない形で、

この国の生きてきた人々の全てを多くの世界に浸透させることになり 真の意味で

「日本」を世界と供に在らんとすることが出来るでしょう。

 

これは武力、人種、宗教、企業にも介在左右されない形で人を繋ぎ、

人の共通倫理を、日本人の手により確立する形となります。

故に現状の「改憲」が「軍化」に通じれば、 あらゆる職能につく「人権ある個人」から、

殺人を犯さない無二の権利と誇りを奪い、 遠からず「殺人者」に変えるでしょう。

これを「憲法」で「国民」を「戦争」から護るべき「国家」が行うことはありえないと思いますが、

この「人権を有した個人」への「人権」の殺虐に この「日本(人)」を至らせないために、

軍化に繋がる「改憲」は 「人間」の総体にとっても不利益でしかないと考えるのです。

 

この文化地域の一人一人の「人」の「人権」と、他者のあらゆる「地域文化に生きる人々」を、

例外なく等しく「人権ある万人」として見れる可能性を奪わないようにと思います。

そして、憲法九条の意義とは「日本人」だけでなく全ての人間に、

 「戦争における殺人」を犯させないものとなった・・・そう考えています。

 

 常にこの国の人々が 国家にも宗教にも企業にも人種にも武力にも左右されずに

 「個人」の「人権」と「倫理」を相互に想い合い維持しえるように。

 

・・・と、

ここまで書き残し、無辜の一石は筆を置くわけですが・・・ちと、長いかも(苦笑)。

他国に干渉されない日本固有の防備/救助力としての設備開発と維持についても書きたいのですが、

これはまた。

というか、物語のこと書いていない。次回は声優を生業とする個人の権利と、

声優の持つ教育者的職能について書きます。

 

あ、そだ。韓国の方々と日本の方々と多分一番かみ合っていないのは、

互いの、生き残ることに貪欲でなくては命を喪うことと、

生きることに必死でなくては個を喪うことの状況の違いを、

互いが理解していない部分かも。お互いに人権在る人同士として助け合わなくてはならないのだけど。

というのも、互いの(政府ではなく)個人の倫理や意識が生まれる過程の異なりと、

状況の違いを常に加味し、捉えないといけないのだけど。日本人の特性は、前述以外でもう1つ在り、

異なりをコミカライズし容認できる変換力の器用さと包容力にある。

けど、これは日本人が一番気づいていない「誇り」で

常に日本人一人一人の「個人」の中に、無数の人種と文化を(人種や宗教に左右されず)

変換させ受け入れる「包容の個性」の多様性が生まれていること。

 

これが世界もまだ明確にしていない特異点になること。

こういった部分を広く浸透させる必要性と自己の自覚を持つことがまだ出来ていない。

だから、受け取れるのに理解しきれない。他者の(残虐性や排斥的でない)

見方を包容できないのは「世界」の多様性を駆使できないことと同義で、

日本人はこれが出来る・・・ということ。と、書き・・・それでは。画をアップさせて元に戻ろう。』

 

以上。

こちらほぼ内容は同じながら、長くなっています。う~む。